なぜブランは王として最適だったか


しつこく「ゲーム・オブ・スローンズ」を考察中。ネタバレ満載なので、未見の方には、まったくオススメできない記事です。すいません。



「ゲーム・オブ・スローンズ」の最終回でブランが王になったのは、私としては「なるほど」の展開だった。鉄の玉座はドロゴン(ドラゴン)に焼き払われてしまったし、一極集中の権力を持つ「人間」ではなく、ウェスタロスの和の「象徴」としてブランが王になったのだと思っている。


なぜティリオンがブランを王として適任だと言い切ったかというと、人々の歴史をつなぐ「記憶の番人」だったからだ。ブランは生身の体を持っているけれど、「三つ目の鴉」というこの世の人ではない、生き神のような存在と考えれば、過去の権力争いの時代から抜けだし、未来を築くには最適な存在だった。


シーズン8のエピソード2で、サムが「本から記憶は得られない。記憶は物語ではない。人間の世界を滅ぼすなら、まずは君から消すだろう」と語っている。ヒアリング力のなさで原文がいまいち聞き取れず、推測になるのだが、「記憶は物語ではない」の部分は結末を知ってしまうと訳(あるいは原文の台詞の文言)が違うと思う(※1)。


本に記録として残るのは、残す価値があると誰かが判断したものだけだ。人の営みには本に記録されない些細なできごとが多々、絡み合っている。そして、その記憶をとどめておけるのは、営みに関わりのある人物であり、ときには、些細な記憶(思い出)が生きる力につながることもある。そして、記憶を持つ人間が誰もいなくなってしまえば、その人の存在も営みの歴史も消えてしまう(※2)。


ブランは世界のあらゆるものを見ることができる。サムはブランを、そうした記録に残らない人間の営みを記憶する存在と言っている。そして、人々の営みを記憶するのは、本ではなく、生身の人間でしかできないことだ。これが最終回の「物語の力」のくだりにつながり、ブランが王に適任であるという理由になる。


ブランが未来を見越して自分が王になるために、サンサを始め、周囲の人々を誘導したのではないか、という感想もちらほら見かけたのだけど、私はそれはちょっと違うかなと感じた。この解釈の違いを生み出すことになったのは、恐らく、ブランの「だから、あなた(自分)は今、ここにいる」という台詞だろう。未来が分かっていたから出た言葉だ、と解釈すると、ブランは王になりたかった、という感想になるのも分かる。


私は、この台詞を聞いたとき、どういう人生の選択をしたとしても、その結果が今、ここに「ある」というだけの意味ではないかと受け取った。人は人生の岐路でさまざまな選択をする。あとになって後悔する選択も少なくない。だが、それも人生の一コマであり、時が流れる以上、後戻りはできない。選択を繰り返し、時を重ねていくしかない。選択の結果、どんな状況が待ち受けていても、瞬間にあるのは、「そこにいる(ある)」という事実だけだ。そして、その事実を三つ目の鴉は肯定も否定もせず、「記憶する」だけなのである。


今、この瞬間を見失い、過去や未来に焦点を当ててしまうと、悩みは深くなる。シオンは、まさにこの典型だった。肉体と精神に多大なダメージを受けたこともあり、過去の選択に捕らわれ、今を生きるよりも、過去の時間に生きていた。ラムジーの支配から抜け出し、サンサやヤーラ、ジョンなど周囲の人と関わり合いながら、少しずつ今を生きることができるようになり、たどり着いたのが、Great Warの場だ。それでも、シオンは自らの選択が招いた罪と後悔から逃れられたわけではなかった。


そして、ブランに謝罪しようとしたとき、ブランは言う。「だから、あなたは今、ここにいる。あなたがいるべき場所、あなたの家だ」と。「あなたの家」と訳された「home」を表面的に捉えれば、幼い頃から育ったスターク家に戻ったという意味になる。だが、ブランをスターク家の次男ではなく、三つ目の鴉として考えると、homeの言葉は、シオンが一人の人間として誰からも侵されることなく存在できる場所という意味にも取れる。


自尊心をラムジーに徹底的に破壊され、人間としての存在意義と生きる意味を失っていたシオンには、過去の罪を許される以上に、「あなたは生き続けていい存在なのだ」と誰かから言われることが必要だった。シオンにとって最も贖罪したい相手であるブランであり、生き神的存在の三つ目の鴉から、その言葉を語りかけられたことで、シオンは、過去の罪を許されただけでなく、一つの命としての存在も許されるという二重の安らぎを得ることになったのだと思う。


最終回のドラゴンピットのシーンでも、ブランが同様の言葉を発したのは、選択したのはティリオンを始め、生き残ったウェスタロスの諸侯たちであり、ブランはその事実を些細な会話も含めて記憶として歴史に刻むために「この場にいる」という意味だったと思っている。


私もシーズン8、とくに終盤は急ぎすぎたと思っている。ヴァリスの処刑は、理由は分かるにしても急展開すぎた。デナーリスの闇落ちもシーズン1から伏線があり、怒濤のどんでん返しが得意なゲーム・オブ・スローンズとはいえ、あまりの変わりようにファンが納得できないのもよく分かる。物語が持つ「負」の面を伝えたかったとはいえ、だ。


ナイトキングが滅んだのにナイツウォッチが必要な理由も説明されず、<壁>が短期間で復活しているのもなぜ?誰が直した?とツッコミどころは満載だ。私が大好きなトアマンドも、さっさと<壁>の向こうにいるのかと思いきや、まだのんびりとカースル・ブラックにいるし。ラブリージョンをお迎えに来たのかなとは思っているけれど。


とくに最終回は製作総指揮とはいえ、本業は脚本家であるデイヴィッド・ベニオフとD・B・ワイスがメガホンを取ったのはどうなのか、と思うところは多々あった。「最後を自分たちで締めたい」という気持ちは分からないでもないが、映像より台詞で語り過ぎだし、脚本家が監督をやると陥りがちな、盛り込みすぎによる消化不良になったのは否めない。せめて、あと1回、放映を増やし、演出と撮影、編集をこれまでの監督に任せた方が場面展開にもたつきがなく、もっとストレートにメッセージは伝わった気がする。が、今さらの話ではあるし、こういうところが制作の難しさなので、撮り直し云々という気持ちはさらさらないが。


そうした諸々の不満があるとはいえ、脚本と俳優の演技はやはり見事だったと思う。ゲーム・オブ・スローンズは、シーズンを重ねるごとに、台詞の意味が深くなっていった。とくにシーズン8は、台詞の一つひとつが練り込まれ、多層的な意味が込められている。ストーリー展開の行間が削られたことにより、目に映る流れだけを追っていくと、「なぜ、ここでこうなるのか」と迷うのだが、過去のシーズンとのつながりや俳優の表情、台詞の意味を注意深く追っていくと、「そういうことか!」と納得することが多い。そして、そこには西洋だけでなく、東洋的な宗教観や思想も混在している。国や民族を超え、人が生きる力や信じる力を失いかけたとき、それを蘇らせてくれる「物語の力」は十二分に伝えてくれたと思う。


ゲーム・オブ・スローンズは、完結まで8年の年月がかかった。その間、原作に(途中まで)沿っているとはいえ、台詞や演出は時代の影響も受けたはずだ。とくにここ数年は、対立と分断の構造が世界的に顕著になり、フィクションもその影響を受けざるを得ない。欧米、とくにアメリカのドラマや映画を見ていると、エンターテイメントでありながら、脚本家や監督が持つ世界観や思想が色濃く反映されることが多い。そうした背景も考えながら、ゲーム・オブ・スローンズを観ると、アメリカのエンターテイメントが持つ底力をつくづく思い知らされる。


※1 情報流出に厳しいドラマの世界同時放送の上に、次週以降の結末が分からない状態での翻訳は大変だったと思う。再放送やDVDになるときはもっと訳が練られるだろうし、同時放送を担当した翻訳者の方たちには感謝しかない。 ※2 宣伝のようで恐縮だが、弊社が構成・編集を担当した『私の夢まで、会いに来てくれた』(朝日新聞出版)も、記憶の物語だった。この本に携わったことで、「人に語らないことにこそ物語があり、その人にとっての真実がある」というメディアの人間としての敗北も味わうことになった。その経験が「ゲーム・オブ・スローンズ」の結末の解釈に影響しているとも思っている。

 

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