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「AERA」にQALのライブレポ&「クイーン展ジャパン」の記事が掲載

更新日:2020年3月11日


 2020年2月10日号(2月3日発売)の「AERA」に2本、クイーンの記事を書きました。AERA dotにも記事が出たので、ニュースでお知らせです。音楽の専門家の方々の記事からかなーり後ずさりしつつ、QAL話題の端っこのほうで刺身のツマ的な原稿を書いてみました。


 1本はステージの上にあふれる覚悟」。もう1本は「色あせた「白鷺」にフレディの証し」です。AERA dotでは、雑誌のときとタイトルが変わっています。


「ステージ上に〜」のほうは、さいたまスーパーアリーナの「クイーン+アダム・ランバート」のライブレポを中心に、東郷かおる子さんや鑑賞した方に取材しました。


「AERA」は一般週刊誌なので、クイーンやアダム・アダムランバートの名前を知っている程度の読者にも興味深く読んでいただけるような切り口になっています。そのため、ライブレポというよりは、ファン目線の鑑賞レポと分析話が多めです。


ライブ・レポをがっつり読みたい方は、こちらがオススメです。







 スピードに劣る紙媒体の宿命で、すでに原稿は私の手から離れていたものの、掲載号が発売されるまでにタイムラグがあり、その間に皆さんの記事を読むことになりました。クイーン+アダム・ランバートのライブ関係の記事で、私の記事がたぶん一番、遅いリリースだと思います。


 増田さんや赤尾さんたちの原稿を読んだとき、「音楽専門の方たちも感じていることは同じだったのだなぁ」と安心しました。「ポイントはここだろう」と自分なりに確信を持って書きましたが、専門家の視点は違うこともあるので、じつはドキドキ。QALの来日公演に関しては、「フレディ伝説を踏まえたクイーンの新しい歴史の始まり」と捉えた人が多かったんだなぁと感じています。


 正直言って、私も初日の幕が開くまでは、クイーンのボーカリストはフレディ・マーキュリー以外に考えられず、+ポール・ロジャースはロックバンドとしては好きですが、別モノだと思っていましたし、追悼コンサートのジョージ・マイケルは素晴らしかったけれど、亡くなってしまったし、アダム・ランバートもどうなんだろうという気持ちがあったことは否めません。個人的にソロシンガーとしてのアダムにいまいち興味がなかったことも影響しました(アダムファンの方、ごめんなさい!)。歌唱力とエンターテイナーとしての能力は素晴らしいのですが、「好みか?」と聞かれると、「うーん」と思っていたからです。サマーソニックのライブもWOWOW放送で見ただけですが、やはりフレディの存在感が強すぎて、アダムがどこか「クイーンのお客さん」に見えていました。


 そんな「あまり期待せずに楽しもう」とさいたまスーパーアリーナに行った私を、QALの「THE RHAPSODY TOUR」はモノの見事にぶっ倒してくれました。このぶっ飛ばされ方は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を初めて観たときと通じるかもしれません。フレディとジョンも揃ったクイーンを見ることはかなわないけれど、クイーンが持っていた熱量や存在感をもう一度、リアルタイムで感じることができるという、ずっと眠っていた感覚的な記憶が引っ張り出されたような気持ちになりました。


 それほど今回のQALの来日公演には、「クイーンの音楽を伝えていく」というブライアンとロジャーの気持ちが熱く込められ、アダムの若さとパワーがその想いを増幅していました。それらが絶妙に組み合わされ、過剰な押しつけにもならず、観客に有無を言わせない完成度の高いステージとして昇華されていたと思います。


 来日公演が終わり、時間が経って気づいたのは、クイーンにはクリエイターとしての面とライブバンドとしての面があるということでした。古くからのクイーンファンとQALライブの素晴らしさをひとしきり語り合ったとき、「アダム・ランバートがボーカルのQALアルバムが出たら買うか否か」という話が出たのですが、ぼんやりとですが2人とも「買わないだろう」という結論になってしまいました。本当に出たら買うとは思うのですが、それよりもライブのBlu-rayを出して欲しいという気持ちのほうがずっと強いのです。


 なぜなのだろうと私なりに考えた答えが、QALは、ライブバンドとしてのクイーン伝説を継承しているのだろう、というものでした。凝った舞台装置とアダムの妖艶さやコケティッシュなパフォーマンスも含めてのQALだからこそ、クイーンの「曲」を生で聞く行為に満足できたのではないでしょうか。視覚的要素と同じ空間に存在する共有感を取り去り、スタジオ録音したクイーンの曲をアダムの声で耳だけ聴くのは、違和感を覚えるだけなのではないだろうか、という気がします。ポール・ロジャースの場合は、まるっきり別モノだったからこそ、逆に聴けたのではないでしょうか。


 映画の「ボヘミアン・ラプソディ」をきっかけに、「AERA in ROCK クイーンの時代」を作ったこともあり、70年代から現代までの流れを検証するため、あれこれ調べているのですが、MTVが登場するまで、音楽は「耳で聴く」ものでした。とくに洋楽ロックは、写真を見る機会はあったものの、情報源がラジオと雑誌が中心の時代です。ビジュアルはほぼ二の次だったと思います。


 フレディが生きていた頃、クイーンはいち早くMVも手がけましたが、当時のファンにとっては、眼で見るバンドというよりは、やはりまだ耳で聴くバンドでした。そのインパクトが強く、「耳から覚えたクイーン」のファンにはフレディの声が叩き込まれているだけに、いくらアダムが素晴らしく歌ったとしても、どうしても置き換えることができないんじゃないかと思います。


 けれど、ステージは生モノ。同じ時間と場を共有することで、演奏側と観客が一体化し、作り出すものです。その「ライブ」の場であれば、視覚的な要素も大きく、「今、この瞬間」だからこそ感じられる新しい要素を持ってきても成立します。だからこそ、「ライブバンドとしてのクイーン」にアダムがピタッとはまったのだと私は思っています。


 とはいえ、これはオールド世代の個人的な感想だと思いますし、フレディが亡くなってからファンになった人や映画をきっかけに知った人は、また違うと思います。その感じ方の違いも、歴史の長いバンドならではの幅広さですし、面白いところです。


 時代の移り変わりのスピードが速くなり、目先の新しいものについ目がいってしまいますが、浮き沈みを経ながら、長く続けるからこそ得られる豊かさと価値について、今回のクイーン〜QALの原稿執筆では、つくづく考えさせられました。


 もう1本の「色あせた「白鷺」にフレディの証し」では、「クイーン展ジャパン」の模様と開催に至った経緯について、展示とキュレーションを担当したシンコーミュージック・エンタテイメントさんに取材しました。取材した日は、日本橋高島屋S.C.で開催された初日、1月15日(水)です。(東京開催は1/15〜1/27)


「クイーン展ジャパン」は、シンコーミュージック・エンタテイメントさんの新刊『QUEEN in JAPAN』と内容がリンクする部分が多々あり、たまたま私も「AERA」にクイーン初来日当時、日本の女性たちが置かれていた社会的立場をからめた記事を書いたこともあり、『QUEEN in JAPAN』のライターとして参加させてもらっていました。


 ですが、展示会のほうはまったくのノータッチなので、来日公演より前に話が持ち上がったことなど、初めて知る話も多かったです。当初は掲載が「クイーン展ジャパン」の記事だけの予定だったので、先に1ページできあがっていました。ところが、編集部で私があまりにも熱くQALのライブ評を語ったため、急きょ、ライブ評を書くことに。そのおかげで、東郷さんにクイーン展ジャパンをブライアンとロジャーが訪問したときの様子も教えていただけたので、バタバタの執筆でしたが結果的にはよかったかなと思っています。




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