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執筆者の写真Naoko Tsunoda

薔薇が舞う華麗なる「ポーの一族展」


 萩尾望都デビュー50周年記念展の企画が発表になったときから、しっかりメモし、7月25日を心待ちにしていたのに、行けたのは31日という出遅れ感もある鑑賞になった「ポーの一族展」。会場は、松屋銀座だ。


 2016年に吉祥寺で開催された「SF展」のときは、ゆったり見られたので、今回もそれくらいかなと思ったら、午後に行ったこともあり、超甘かった。さすが連載の再開時に掲載誌「フラワーズ」を増刷させる熱狂を巻き起こした「ポーの一族」である。ヅカファンの来場も重なったのだろう。会場は大混雑。入り口から長蛇の列が続いていた。


 原画前に数珠つなぎになっている列に並び、順番に見ていく方法は諦め、一歩引いたところから、つらつらと眺めることにしたのだけど、展示されている原画の数が半端なく多い。「ポーの一族」は短編も多いので、「あれ?全ページ読める?」という状況も。ついストーリーに引き込まれてしまうものだから、鑑賞の列も進まないわけだ。じっくり見つめたいと、リーディンググラスを取り出す人を多々見かけたのも、「ご同輩!」という気持ちになった。


 とはいえ、猛暑でぐったりしていたところに加え、人混みにもよれよれになってしまい、空いているところを選びながら、ささささーっと見るくらいになってしまったのだけど、国宝級の美は堪能できたと思う。モー様のすごいところは、ストーリーテーラーとしての巧みさに加え、構図の発想が独創的で多面的なことだ。どこの視点から見てるのか、と思うような柔かで奥行きのある構図が、ポーの一族では、とくに際立つ。


 大友克洋も立体的な視点から見た構図を得意とするけれど、彼の場合は硬質でシャープ。それに対し、モー様の場合は浮遊しているような、水中を泳ぎ回るような柔らかさ。その構図の素晴らしさにはため息が出た。


 それともう一つ、モー様も50年の間に、だいぶ絵柄が変わったと思っていたけれど、「ポーの一族」を順に眺めて気づいたことがあった。連載再開後のエドガーたちが、40年前の絵柄と違和感なく見られるのだ。単行本や月刊誌という本の形で読んだときは、連載再開後のエドガーたちにギャップを感じ、慣れるまで時間がかかったのだが、原画の形で見てみると、エドガーはやっぱりエドガーであり、アランはアランと連続性があった。モー様の絵柄の変化を、時系列の流れのなかで見ることができたからなのかもしれない。こういう新しい発見があるところが、展覧会ならではの楽しみなのだろう。


 宝塚で上演された「ポーの一族」の衣装が展示されていたり、レースと薔薇の花が飛び交うような華やかな雰囲気たっぷりの展覧会に十分、満足したのだが、個人的な感想で言えば、「SF展」のほうが、じつは興奮度は高かった。今日の展覧会でも、「ポーの一族」よりも、「トーマの心臓」や「ゴールデンライラック」「この娘うります!」「王妃マルゴ」などの原画のほうに目が向いてしまった。「訪問者」なんて、表紙に描かれたオスカーの表情を見るだけで、涙が出そうになる。


 たぶん、私のなかで、「ポーの一族」は、ビートルズで言えば、「プリーズ・プリーズ・ミー」や青盤、赤盤みたいなもので、代表作がゆえに、ちょっと遠い存在になり、SF展のほうがホワイトアルバムの立ち位置なのだろう。ビートルズも、アルバムとしてどれがベストか聞かれれば、私はホワイトアルバムを選んでしまう。そのへそ曲がり的な感覚が、「ポーの一族展」の感想にも影響したのかもしれない。


 会場の出口には、一筆箋やクリアファイルなどのグッズもあれこれ販売されていたけれど、私が購入したのは図録一択。モー様のアイデア帳であるスケッチブックのレプリカが別冊としてついていて、これが興味深いのだ。


 普通なら、ほぼ見ることができない創作の裏側を教えてくれるスケッチブックは、ファンにはたまらない、展覧会ならではの販売品の一つだと思う。

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