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映画「新聞記者」の恐怖と希望


 レイトショーの駆け込みで、映画「新聞記者」を鑑賞。もう「観てー!」と言うしかない一級品の映画だった。最初から最後まで息を殺して観た。


 すぐにFacebookに感想を投稿しようとしたら、なぜか投稿に時間がかかる。アプリの不調だと思うのだが、「うわっ、こんなボンクラ人間にも内調が?」と後ろを振り返ってしまうくらい、映画から現実につながる恐怖があった。


 結末の「じゃあ、あなたはどうするのか?」と突きつけられる重さを感じながら、とぼとぼと帰ったわけだが、鑑賞から1日経った今でも、どうしたらいいかはよく分からない。そして、未来の先行きも。けれど、選挙には行かなければ、とは思った。今までも棄権したことはないのだが。


 これまで私が観てきた日本のポリティカル映画は、主人公(当事者かメディア関係者)が企業(政府)と対峙する、自分とは離れた事件を取り上げたものが多かったように思う。だが、この映画は、観ている観客、無名の一人ひとりが押しつぶされるかもしれない怖さをネット社会とSNSのリアリティを持って描いている。その意味でも新しかったと思うし、すずさんの「この世界の片隅に」の現代版とも言えるのではないだろうか。すずさんを観て号泣した人は、きっと「新聞記者」にもぐっと胸をつかまれ、泣くところが多々あると思う。


 ここ最近、Twitterで「ん?」と思う人のアカウント追っていくと、本当に、自分の意志や考えを元に発言している人間が実在しているのかな?ということは、増えてる気がしていた。かなりフェイクアカウントが暗躍してるんだろうと思っていたところに観たので、その意味でもリアルだった。


 そして、なんといっても素晴らしかったのは、松坂桃李とシム・ウンギョンの役者魂だ。松坂桃李の追い詰められた表情と迷いのなかにある表情。悩み、苦しみながらも前を向いて闘おうとするシム・ウンギョンの眼差しの強さ。彼女の目線の強さに救われ、背中を押された気がした。


 メディアの端っこに関わる人間としては、北村有起哉の表情にもぐっときた。彼の立場から、攻めるか、守るか、悩む気持ちもよく伝わってきたからだ。たった一人で、政府の圧力の恐ろしさを演じきった田中哲司も素晴らしかったし、松坂桃李の元上司役、高橋和也の無念さ、人間としての弱さも共感できるものがあった。


 欲を言えば、政府が行おうとしているプロジェクトにもう一ひねり欲しかったな、ということと、証拠集めが「それ?」というところはあったけれど、伝えたいメッセージはがっちりと深く刻まれていたと思う。


 原稿を書くときは、どんな情報でも不安がある。何度も確認し、行けると思っていても、見落としや死角をゼロにはできない。読者が受け入れてくれるかどうかもある。発売日やネットにアップされるときは逃げたくなる。映画のなかには、印象的な言葉がいくつもあったが、私にとっては、「自分を信じ、自分を疑え」が一番、胸に残ったかもしれない。


 エンドロールが終わって灯りがつくまで、ほとんどの観客が立ち上がらなかったのも、「ボヘミアン・ラプソディ」以来。泣いている人もいたし、隣のお姉さんはタオルを手放さなかった。違うのは、重苦しい空気。「ボヘミアン・ラプソディ」は、心の底から自分を信じる勇気がわいてくる映画だが、「新聞記者」は現実にほうり投げられる。私も含めて考えることがあり、観客は我が身のこととしてリアルに感じたのだと思う。

 

 古い映画だが、穏便に暮らしてたはずの人間が陰謀に巻き込まれてしまう「コンドル」を思い出した。主人公の「コンドル」ことロバート・レッドフォードは、CIA勤務だから、まったくの一般人ではないけれど、どこから狙われるか分からない恐怖の質は似ていたと思う。70年代映画なので、今、観るとツッコミどころはあるのだが、何度も繰り返して観る好きな映画だし、ラストのすっきりしなさ加減は近い。マックス・フォン・シドーがとにかく格好いい映画でもある。


 制作者たちの肝の据わり方にも励まされた。「ボヘミアン・ラプソディ」「ゲームオブスローンズ」に続き、「新聞記者」「いだてん」と、一人の人間としてのあり方や社会のあり方を問われる映画やドラマが続いている。表現する人たちが、それだけ今の息苦しさに危機感を抱いている現れなのだろう。





新聞記者公式ホームページ

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