「kimono」ブランド名問題になぜこだわるのか


先週から起こったキム・カーダシアン・ウェストさんの「kimono」ブランド問題。AERA.dotに記事が出ました。


なぜ私がこの問題にこだわるのか、を書いておきたいと思います。妄想であって欲しい、考えすぎであって欲しいと思いますが、昨今の世界的なネットの利用や出版の状況、人々の言葉の扱いを見ていると、そう楽観できないと思っています。



「文化の盗用」は、マジョリティとマイノリティの関係性の問題でもあり、多くの民族が共に暮らすことで問題が起こりやすいアメリカでも、どう決着をつけるか答えが見つからず、時間が過ぎて、結局は、マイノリティのほうが諦めることになる。文化の盗用問題が起こりやすかったファッション界では、もっと表面化しやすくなり、盗用したと言われたブランドやアーティストが謝罪したりしていますが。


今回のような言葉の問題は、目で見る文字の形はありますが、それを支える概念には形がないだけに判断が難しいです。デザインのほうが、視覚でジャッジできるだけに、まだ似ているかどうかの判断がしやすいかもしれません。


カーダシアンさんのブランド名で扱う補正下着は、日本人の着物とは違うデザインです。一個人がやることですし、ビジネスをする自由はあるわけだし、認めてもいいのではないか、という意見があるのも十分、分かります。また、日本の着物には歴史があり、世界的に愛されているのだから、そう簡単にイメージが覆されることはない、という意見も本当に私も信じたいです。


が、「そうですね」と言うには、彼女の影響力は大きすぎると思います。カーダシアンさんのInstagramのフォロワーは、日本の人口以上。なかにはすでに見るのをやめてしまったり、複数アカウントもあるとは思いますが、それでも桁外れです。一つのカーダシアン国と言ってもいいかもしれません。しかも、Instagramは、カーダシアンさんの発信をフォロワーが一方的に受け取るツールであり、相互コミュニケーションはほぼ成り立ちません。コメントがあったとしても、それを見るかどうかの主導権はカーダシアンさんにあるSNSです。


そして、写真を使ったコミュニケーションのため、文字は介在しにくい。コメントや外部からの意見が混じるといった深い論議は交わされないまま、一方的に、カーダシアンさんからの情報がフォロワーに浸透していくツールです。カーダシアンさんに憧れ、好意を持っているフォロワーですから、その情報を素直に受け取る率は高いでしょう。


ある意味、閉鎖された環境のなかで、kimonoは彼女のブランド名である、という情報が一方的に流されるツールなわけです。そして、これには、パソコンに比べて、横断的に情報を見ることが面倒になるスマートフォンの特性も、閉鎖性を高めます。


フォロワーは、Twitterや他の情報にも、もちろん触れるでしょうから、なかには「あれ?」と思う人はいると思います。その現れが、今のkimonoアカウントのフォロワー増の鈍さだと思います。でも、それも、一時的なことです。今、メディアが取り上げ、Twitterでも「それは困る」という意見があるから、カーダシアンさんのフォロワーも目にするけれど、発売開始になり、彼女のブランドを中心にした世界的規模のコミュニティができてしまい、しかも商品に満足すれば、外野の意見は無視されると思います。


そうなると、カーダシアン国では、kimonoの言葉は、補正下着の意味を持って通用することになります。すでに、コメントのなかには、kimonoを彼女の補正下着の名称として呼んでいるフォロワーが何人もいました。これがカーダシアン国内だけの用語で済めばいいですが、フォロワーたちは、普通に生活しています。その影響が実生活にも現れ、kimonoが、日本の着物を指す言葉から、補正下着の意味に変わっていくことも、十分に考えられるのではないでしょうか。そもそも、kimonoが、日本の着物を指す言葉であることを知らない人も世界には大勢いるわけですから。


日本国内では、kimonoを補正下着のブランド名と思うことはあり得ませんが、米国、そして世界では、カーダシアンさんの補正下着がkimonoである、と一般化する状況になるかもしれません。今すぐのことでなくても、カーダシアンさんのビジネスが成功し、ネット通販や店舗が拡大していけば、その商品と結びつく形で「kimono」の名称は広がっていきます。そうなると、日本の着物のほうが、「kimono」の言葉をパクっているということにもなりかねないわけです。


すると、どうなるか。たとえば、日本の小説が英訳された場合、kimonoという言葉が出てきたとき、読者は日本の着物をイメージせず、カーダシアンさんの補正下着をイメージすることが起こりうる。となると、翻訳者は、補足説明を入れるか、他の言葉に言い換える必要が出てきます。今の時点で、すでに英語の辞書に一般名詞として載っている言葉の意味を、一個人のブランド名が変えてしまうのです。


これまでも、使用言語や生活習慣の違いから、翻訳時に補足説明したり、言い換えることはありますが、kimonoは日本の着物を意味するものとして、現在は、英語圏で辞書に一般名詞として載っています。それが、日本のローカルな言葉に戻ってしまうわけです。


一人の人間が所有するブランド名によって、世界的に通用する(英語圏ですが)日本語の意味を劇的に、まったく違う意味に変え、辺境の状態に戻す可能性が出てきた、という事例は、私にとって、かなりの衝撃でした。


とてもデリケートな問題なのに、カーダシアンさんは、現時点で日本からの声には耳を傾ける姿勢は見せていないように思います。彼女にしてみれば、法律に違反しているわけではないから、何をクレームつけているんだ、というくらいなのかもしれません。


難しいのは、日本では着物は一般名詞ですし、たとえば、和装業界団体が彼女に商標権の差し止めを求めようにも、被害をどれくらい被っているかが証明しにくいので、原告になる理由が弱い。個人や団体のレベルでは、誰もカーダシアンさんの使用に対して、法律という彼女も従わざるを得ないルール上では、異議申立はできないんじゃないかと思います。


私も含めて、日本では文化(言葉)の盗用にピンとこないことが多いですし、今回のようなケースを個人がやっていることだからと、そのままにしておくことが果たしていいのか、という議論も起こっていません。言葉のすり替えに対する危うさより、着物文化の侵害のほうに目が向いている状況だと思います。(私が気づかないだけだったら、スイマセン)


けれど、言葉の意味のすり替え問題は、今回に限らず、今後も起きると予想しています。彼女の事例が成功すれば、他の潤沢な資金を持ち、数多くのフォロワーを持つ人が同様な手段で、日本に限らず、他国の言葉でも始める可能性はあると思います。そうなれば、どんな時代になるのでしょうか。言葉の私有化によって、違うコミュニテイの人間同士では、翻訳を介さないと会話が成り立たない状態になるかもしれません。そして、その言葉を支配する人間に従うしかない状況になるのではないかと、SF的な発想までしてしまいます。この手の言葉を奪われる話は、小説や映画にもいくらでもありますし、現実に他国の言葉を強要された歴史もあるわけです。


言葉には、その言葉が生まれる背景があり、歴史があります。たとえば、日本の言葉も成り立ちがあり、歴史によって揉まれ、ときには、社会の状況に応じて、意味が変化して生き続けています。言葉を発声するときの音にも歴史があります。


ある国の人間の生活に深く関わってきた言葉の歴史が、一人の他文化の人間によって断絶され、まったく違う方向に向けられてしまうことが、果たしていいことなのでしょうか。ビジネスという金銭で成り立つ世界のルールが優先される時代だから、と許すしかないのでしょうか。もちろん、過去の歴史を見れば、同様の言葉の変化はあったのだと思います。日本でも、過去に他国の言葉の使い方が問題視され、変化しました。また、いまだに気づかず使っている言葉もたくさんあると思います。


たまたま今回は、あまりにも簡単に、時間もかけずに「着物」の意味が世界的に変わりかねない、というだけなのでしょう。ただ、その速さと手法には、やはり衝撃を受けます。


個人と個人が結びつくSNSが普及する前であれば、似たようなネーミングの問題が起きても、局地的な変化から始まり、時間をかけて社会に浸透していくうちに、人々の生活に馴染んでいったのだと思います。そこには、受け入れる側の取捨選択の余地があります。その国において、呼びにくかったり、書きにくい文字は自然と廃れていきます。


それがネット、それも、Instagramという、言葉ではなく、写真でコミュニケーションをとるSNSの特性で、意味のすり替えが急激に浸透していく(未確定ですが)。今の時代だからこそ起こった新たな言葉の課題だと思ってます。あまりにも変化のスピードが速すぎます。


この問題は、もっと時間をかけて、言語だけでなく、インターネットやビジネスの専門家などが垣根を超えて、きちんと論議すべきだと思うのです。


議論の場が作られても、はっきりしたルールは作られないと思いますし、個々のケースでも正解はないと思います。立場によっても考えは違うでしょう。公共のものであり、社会の土台を作っている言葉という資産をどう考えるか。結局は、個々のモラルの問題になってしまうかもしれません。でも、議論なしに、今回の件を見過ごすことは、やはり言葉を扱う仕事の人間としては、無駄と分かっていても、のちに後悔しないために、「ちょっと待ったー!」の意思表明はしておきたい。



今後、同様の問題が起きたときに、どうしたらいいのか、他言語の扱いについて、日本だけでなく、他の国も含めて世界的に考えていく何らかの場が作られる方向にいけばいいと持ってます。


この問題は、単に着物文化が足蹴にされた、というウェットな問題ではないと思います。ブランド名の発表があってから、この件に関心を持ち続けてきた人たちは、「kimono」という一つの言葉にとどまらず、すべての言葉に関わる、意味のすり替えに対する危機感から、「まずはカーダシアンさんよ、いったん、ブランド名につけるのは、待ってくれ。ちゃんと広く、公共の問題として議論してからにしようよ」という気持ちなんだと思います。最初は「侮辱された」と思うのですが、よーく考えていくと、この問題に潜む危うさに気づくことになるのです。


過去にも同様の問題があったのであれば、どのように対処されてきたのか、専門家の意見や考えなども知りたいところです。


ということを英語で書ければいいのですが、悲しいかな、英語力が……。ああ、もっと勉強しておけばよかったと思う今日この頃です。


弱気なことを言えば、日本で暮らしているわけですし、斜陽産業の出版の人間ですし、仕事も忙しいし、年齢も年齢なので、この問題に関わるより、知らんぷりして逃げ切るか、とも思うのですが、一方で、後世に残る(らないかもしれないけど)本の制作に関わっている以上、やはり、下に続く世代に、言葉に関する課題を残していいのか、と自分を奮い立たせているようなところなのです。





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