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「物語」から「おとぎ話」として完結した「ゲーム・オブ・スローンズ」

 



海外ドラマの「ゲーム・オブ・スローンズ」が完結した。


 シーズン8は全6話に絞ったこともあり、毎回、展開が早く、読み解くのにかなり頭を使うことになった。台詞や映像、俳優の表情、衣装とメイクの変化から、「こういう意味なのでは?」と推測したり、友人と話し合ったり、ファンのTweetから「ああ、そういう意味かも」と考えたり、その「行間の読み」が楽しく、普通のドラマとして観ていたシーズン7までとはまったく違う熱量で夢中になってしまった。


 昨日、最終回が放映され、8年間のドラマが完結した。それから1日経って思うのは、「ゲーム・オブ・スローンズ」が「物語」から「おとぎ話」になったのだ、ということだ。最終回、ドラゴンピットでティリオンが語ったことが、製作総指揮・脚本家であり、最終回の監督を務めたデイヴィッド・ベニオフとD・B・ワイスからの最大のメッセージだったと思うのだが、彼らは「物語の力」は何ものにも勝るとティリオンに語らせていた。


 希代のストーリーテイラーである彼らだから、物語の力を信じることの大切さを語りたかった気持ちはよく分かる。拝金主義や個人主義が加速する中で、人々を結びつける物語の力が失われつつあること、その危うさは、10年以上前から村上春樹や河合隼雄らも指摘していたことだ。私も、目には見えない「人間の姿」を求め続ける物語の力が生きる力になることには同意するし、日本だけでなく、米国の作家、製作者たちも、同じように感じていたのかもしれないと思った。


物語の面白さは、胸躍らせる楽しさもあれば、闇の中に迷い込む恐ろしさもあることだ。本を閉じたり、スイッチを切った瞬間にスパッと現実に戻れればいいのだが、物語は現実の世界と地続きになることもある。物語が優れていればいるほど、その境界線は曖昧になる。だから、優れた小説やドラマ、映画は人々を熱狂させ、夢中にさせる。


「ゲーム・オブ・スローンズ」の新しさは、視聴者を裏切り続けることに徹したことだろう。ここまで主役級の登場人物が表舞台からいなくなるドラマが他にあっただろうかと思うくらいだ。しかも、去り方にはキャスト降板等の大人の事情ではなく、ストーリーの必然性があり、悲劇的な要素がたっぷりと盛り込まれる。生き残っている人物も救いがないと感じるほど徹底的に痛めつけられ、救済されるときも一筋縄ではいかない。視聴者も現実の生活で、意識的、あるいは無意識的に選択を迫られる場面が必ずある。そして、最良の選択をしたと思っている場合でも、その後、「あれでよかったのだろうか」と迷うことがあるように、すっきりと片づけてはくれないのだ。


「ゲーム・オブ・スローンズ」は、人間同士の争いや愛憎劇に、「ナイトキング」との闘いやドラゴン、三ツ目の鴉などの幻想の世界を重ね合わせた。「ゲーム・オブ・スローンズ」を通して観ると、たとえば、中世の架空の国を舞台に人間の葛藤を描く設定でも製作側のメッセージは十分に伝わり、ストーリーは成立することに気づく。しかし、人智を超えた存在を加えることで、人間の愚かさや限りある命の尊さ、はかなさまでも描き出し、奥深さを生むことになった。歴史という「記憶」と「時」を象徴にすることで、第1話から続いてきた王座争いのドラマに一応の決着をつけ、視聴者を納得させる方向に落としどころが得られたのも、ファンタジーが持つ力に寄るところが大きいと思う。


 小説やドラマの人間が頭で考えた「作り物の世界」では、善と悪、正義と不正、愛と憎しみなどの二択のどちらかに決着することが多い。とくにこれまでの米国の映画やドラマは、それらの二択のどちらかが、たとえ主人公が死を迎えることになっても、「勝つ」カタルシスを描くことで終わらせるストーリーが目立ったように思う。ところが、「ゲーム・オブ・スローンズ」は、その二択式ストーリーに真っ向から勝負し、善でもなく、悪とも呼べない間の存在が描かれていた。悪に思える存在にも彼らなりの正義と善があり、共感を呼ぶように作られている。彼らにも彼らなりの「物語」があるのだ。


 物語は、人の数だけある。他人がそれを知ることがないのは、文字や映像など、形にする価値があると判断されたものだけが表に現れ、残っていくからだ。「ゲーム・オブ・スローンズ」は、登場人物のそれぞれに物語があり、絡み合い、多層的な構造になっていた。加えて、英国出身の俳優が多かったこともあり、この手のドラマが得意なイギリス制作だったかと、勘違いしそうになったことも度々だった。が、制作は「HBO」という米国ケーブル局だ。制作と配信がグローバル化し、さまざまな考えが投影され、かつてのように、その国らしさを感じにくくなっているとはいえ、世界的な大ヒットになり、とくにアメリカでは社会現象を巻き起こすほどの人気になっていることを考えると、「今の時代に求められているもの」を推測する材料として、なかなか興味深い。


 現実の社会で人と人をつなげ、動かす力を持つ「物語」が必要とされるのは、何かが壊れ、何かが新しく生み出されるときだ。そして、その「物語」には、求める人の望みが投影される。その望みを持たない人の視点から見ると、「偏っている」「合わない」と感じるのは、そのためだ。個人が情報を簡単に受発信でき、消化のスピードも加速している今の時代は、分かりやすい二択式の「物語」が好まれる。善か悪か、正義か不正か、愛か憎しみか。その狭間にあるものの存在に気づいても、それを捉えて、より深い層を持つ別の「物語」を作り出すには時間がかかる。考えている間に時は進み、その間に分かりやすい「物語」のほうに注目が集まり、もてはやされていく。そんな時代に「ゲーム・オブ・スローンズ」は、物語を描ききるのに8年もの月日をかけた。


「物語」と「おとぎ話」は違いは、「おとぎ話」のほうが「物語」より現実から遠いことだ。荒唐無稽さや矛盾をはらみながら、人間の誰もが持つ、生死の根底を支える真実を教えてくれる。「物語」では共感できなかった人も、「おとぎ話」になると、理屈ではなく、心で受け入れられることが多い。


「おとぎ話」は、作ろうとしてもそう簡単には作れない。誰が作ったかも分からない話が長い年月を経て、いつの間にか国や立場、性別を超えて、多くの人の心に残っていく。「ゲーム・オブ・スローンズ」も制作に数多くの人が関わり、8年もの年月をかけたことで、デイヴィッド・ベニオフやD・B・ワイスら製作陣、原作者のジョージ・R・R・マーティンの思惑を超えて、生み出されたものが多々、あったと思う。


 彼らの足元にも及ばないが、私が書籍を制作しているときも、ぎりぎりまで粘りながら悪戦苦闘していると、あるものがカチリとはまり、予想の範囲を超えた「何か」が生まれたと感じる瞬間が不思議とある。映画やドラマ、書籍にかかわらず、何らかの創作物の制作者は、その麻薬のような自らを超える「何か」を味わう瞬間を求めて、苦労し続けているのではないか、と思うくらいの快感なのだ。そんな自分の体験からも、「ゲーム・オブ・スローンズ」は、話の大筋は原作者の意向に沿っていたとしても、長い年月の中で思惑を超えて生まれたものが、最終回で語られた台詞の一つひとつにつながっていたのではないだろうか。


 ティリオンは「STORY(物語)」の言葉を使ったが、文字や音という表に現れた言葉は「物語」でも、意味するところは「おとぎ話」が持つ力を指していたのだと思う。「ゲーム・オブ・スローンズ」を現実に近い「物語」として考えると、アメリカで撮り直しを求める署名運動が起こるくらい、「納得できない」と思う意見になるのも分かる。一方で、Twitterの感想を見ていて、日本では案外とシーズン8の流れや最終回にどうしても我慢できないという人が少なかったように思う。その理由の一つに、日本には「おとぎ話」を受け入れる土壌があったからなのではないだろうか。


 シーズン8は、回数の少なさから、登場人物の行動を埋める描かれなかった部分が多々あったことは否めない。だが、私は製作陣が描こうとしていたこと、伝えたかったことに不満はなかった。むしろ、予算や制作時間の制限があるなかで、よくぞここまで台詞と映像を凝縮し、「おとぎ話」として感じられるほどに「物語」を昇華させ、余韻を残したことに拍手を贈りたい。





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